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読むクスリ

求道

求道について説明します。
◎求道とは
求道(きゅうどう)とは「道を求める」と書きますが、道とは死の解決のことを指します。つまり、求道とは死の解決の世界を求めることを言います。
●2通りの求道
求道には、大きく2つの方法があります。
○方便
求道と聞くと、山で修行することをイメージする人も多いと思いますが、それは方便の仏教といって正しくありません。方便とは「真実に近づける」という意味です。つまり、「自分の力だけで助かってみせる」と自惚れている人に対して、「出来るものならやってみなさい」と、真実の仏教へ目を向けさせる為に釈迦が説いたものになります。方便の仏教は、千日回峰行等、非常に過酷な荒行をしなければ救われないという修行です。こういった修行を達成すること自体、非常に困難なのですが、例え出来たとしても救われず、結論から言うと人間には不可能な方法なのです。ですので、方便の道は偽物ということになります。
○真実
もう1つの方法が真実の道であり、勿論これが正しい求道です。
◎真実の求道
●真実の道とは
真実の道とはどんな道なのか、幾つか例を挙げます。
○宿善を積む道
宿善とは宿世の善業の略です。宿世とは過去世のことで、過去に行った善行為を宿善と言います。一度行った善は消えず、宿善として体に宿ります。求道とは宿善を積み続けることであり、やがてコップに水を注ぐように、宿善が満杯となる瞬間があります。この瞬間が死の解決となります。仏教は宿善まかせと言われるくらい、宿善の程度に大きく左右されます。
○聴聞の道
聴聞という方法があります。詳細は聴聞を知るで説明していますが、真実の求道は聴聞の道となり、聴聞をすることで死の解決ができます。
○廃立の道
廃立とは、捨てるべきもの(廃)と信ずべきもの(立)という意味で、仏教は廃立の教えとも言われるくらい、廃立を重視します。真理は1つであり、クソもミソも一緒にしていては救われないからです。どんな廃立があるのか、幾つか例を挙げます。
・仏教か他宗教か
仏教以外の全宗教を捨て、仏教を信すべき。
・自力か他力か
自力を捨て、他力を信ずべき。
・信心か念仏か
念仏では救われず、信心で救われる。
○悪人になる道

●求道の場所
真実の仏教は在家、つまり普通の生活をしながら求道できるものです。むしろ、生活そのものが求道の一部となります。これを「生活即求道」と言います。ただし、生活即求道となる為には、聴聞をすることが前提となります。
●救い主
求道は、1人でゴールまで辿り着くことはできません。
○善知識
善知識とは、仏教の正しい先生という意味で、求道をまっすぐ進む方法を説く方です。狭くは釈迦を指し、広くは釈迦の教えを間違いなく伝える人を指します。善知識まかせとも言われるくらい、善知識無しに、求道のゴールはできません。
・善知識の役割
善知識は、求道の方法を説くことはできますが、最終的な救い主ではありません。求道のゴールとなる死の解決をすることができるのは、次に説明する阿弥陀仏の力のみとなります。
○阿弥陀仏
「仏」と呼ばれる方は、釈迦を始めこの世には無数にいるのですが、仏の世界にも上下関係があります。その中で、最高の仏とされるのが阿弥陀仏という仏となります。仏教では、阿弥陀仏を最も尊い仏として位置付けます。なぜなら、阿弥陀仏は釈迦の先生であり、人類唯一の救い主だからです。ですので釈迦も、一向専念無量寿仏といって、阿弥陀仏一仏だけに向かうよう勧めています。求道は、阿弥陀仏だけに向かうことから始まり、阿弥陀仏に救われるという体験で終わるのです。
・他力
方便の仏教を自力の仏教、真実の仏教を他力の仏教とも言います。他力とは「他人まかせ」という意味ではなく、阿弥陀仏の本願力のことを言います。先に説明した通り、人間は自力で努力して救われようと思ってもできるものではありません。阿弥陀仏の力で救われるということです。
●求道の流れ
求道する、つまり聴聞を続けていくと具体的にどのような変化があるのかを説明します。一部例外がありますが、ほとんどの人が次のような流れを辿ります。
○スタート
どんな偉大な仏教者でも、求道をスタートしたという瞬間があります。そのきっかけは様々で、失恋や仕事の失敗を縁に仏教に関心を持ったという人もいれば、罪悪観や無常観を観じて求道を始めたという人もいます。例えば、オンリーライフでは、心の悩みを仏教に興味を持つきっかけにしているわけです。
○初心者
仏教を聞き始めた初心者は、知解(ちげ)の段階といって、知識を深めようとします。正邪の見極めや、仏教の真実性を知識によって理解しようとするわけです。そして、知識を深めようとすれば必ず疑問が出てきます。知識を深め、疑問を解決するという作業の連続が、求道の初心者に多い流れとなり、また必要となります。
○中級者
知識の理解が進むと、疑問が一切無くなる時期がやってきます。「釈迦の言うことに間違いは一切無い」と思うようになり、仏教をすんなりと受け入れられるようになります。そして、「死の解決」という世界が机上の空論ではなく、現実に存在する世界なのだということが分かり、体験的な理解を求めるようになります。また、求道の初心者は「死」を遠く感じていますが、段々と死が身近なものとして感じるようにもなってきます。すると、恐怖や不安が強くなると同時に、「助かりたい」という思いも強くなり求道が加速します。
○上級者
さらに求道が進むと、疑情(無明とも言います)といって阿弥陀仏の本願を疑う心が、手に取るようにはっきりと見えてきます。また、罪悪観や無常観も深く問い詰まり、本人にとっては恐怖や不安でいっぱいですが、この段階までくればゴールはすぐそこです。
○ゴール
最終的に、本当の自分である悪人の姿が分かり、求道のゴールである死の解決となります。死の解決は、百雷が落ちた如く明らかな体験である為、達成すれば誰でもゴールだと分かります。
●求道の時間
スタートからゴールまで、求道に要する時間は人によります。1回の聴聞でゴールした人もいれば、何年経ってもゴールできない人もいます。このような違いはどうして生じるかというと、聴聞の「聞き方」や宿善といったものになります。真剣な聴聞をする人や宿善の厚い人は速く、その逆の人は遅いということです。
●求道の難易度
求道の難易度も人によって違いますので、一概に決められませんが幾つか参考になる表現があります。
・易行難信
行事易く、信じ難いという意味です。真実の仏教は聴聞するだけなので、実行することは簡単です。しかし、聴聞する目的である「信心」を得ることは非常に難しいことなのです。
・国に1人郡に1人
死の解決まで求め切る人の確率が、これぐらいという言葉です。国と郡は昔の単位ですので、今では都道府県や市区町村にあたります。この人数しか求道のゴールまで行けないということではなく、それぐらい難しいということです。
●求道のモチベーション
求道のモチベーションを求道心と言います。求道者と呼ばれる人は、何をモチベーションに求道するのか、一般論ですが一例を挙げます。他にもありますが、こういったものの感じ方が弱いと、途中で挫折します。
・罪悪観・無常観
罪悪観や無常観が強い人ほど、求道心も強いです。
・死後の心配
「死んだ後はどんなところなのか」と死後を心配する人ほど、求道心は強いです。
・死の解決への憧れ
死の解決をした世界への憧れが強い人ほど、求道心は強いです。
・人生は苦なり
生きることへの苦しさを強く感じている人ほど、求道心は強いです。
・世間虚仮
世の中は、嘘や偽りばかりで真実なるものは一切無いと強く感じている人ほど、求道心は強いです。
・仏法尊し
仏教を尊いと思っている人ほど、求道心は強いです。
・現世利益
心の病が治ったり、強い現世利益を感じている人ほど、求道心は強いです。
◎求道者のレベル
広い意味では、全ての人間が求道者と言えます。求道者といっても、ピンからキリまでレベルがあり、大きく5つに分けることができます。
●異安心(レベル1)
「いあんじん」と読み、「安心」とは「信心」のことで、異なる信心という意味です。何と異なるかというと、他力の信心、つまり阿弥陀仏から賜る信心と異なるということです。本来は他力の信心を得ていない全ての人になりますが、以下のような、このまま行けば救われると勘違いしている人を指す場合が多いです。こういった人達は、「自分が正しい」と完全に思い込んでおり、間違いに気づきにくい為、死の解決から遠い最もレベルの低い求道者となります。
・善知識だのみの異安心
阿弥陀仏ではなく、善知識が助けてくれると思っている人
・称名称因の異安心
念仏を唱えていれば助かると思っている人
・十劫安心
はるか昔に阿弥陀仏は助けてくれたのだから、何もしなくても助かると思っている人
●邪教の人(レベル2)
邪教とは書いて字の如く、邪な教えのことで、仏教以外の全宗教を指します。異安心と同じぐらいのレベルですが、邪教は全く教えの内容が違う為、異安心に比べて間違いに気づきやすいということがあります。ですので、邪教の人は異安心に比べ多少はマシな求道者となります。
●何も知らない人(レベル3)
異安心でも邪教でもない人は、真っ白な白紙のようなもので、教え次第で何色にも染まります。
●知っていても求めない人(レベル4)
真実の仏教を知っても求めない人がいます。頭では、仏教の重要性を多少は分かっていても、体で分かっていない為、求めようという気にはならないのです。
●知っていて求める人(レベル5)
真実の仏教を知り、死の解決を求めている人で、通常は、この人を求道者と言います。あと少し努力すれば、求道のゴールに到達出来る為、最もレベルの高い求道者と言えます。
◎求道者の罠
真実の求道者となれば、皆ゴールまで辿り着ける、というわけではありません。あと一歩というところにいながら、危険な罠にハマる求道者が非常に多いのです。
●罠の種類
○脱線する求道者
真実の求道の道を歩みながら、途中で「脱線」する人がいます。つまり、途中で求道を断念してしまうということです。表面的な理由は様々ですが、根本的には「求道する意欲がなくなった」ということになります。では、なぜ途中で意欲がなくなるのかというと、次のような理由からです。
・欲に負ける
求道すると、欲を始めとした煩悩が必ず邪魔になり、負けないよう我慢したり闘うようになります。負けてもまた求道心が出てくればいいのですが、欲は強力なので、弱い求道心だと立ち直すことができなくなります。
・続かない幸せが欲しくなる
死の解決という絶対の幸せは、少し努力しても中々手に入らない為、すぐ手に入る目先の幸せが欲しくなります。この場合も、すぐに死の解決に目を向き直せればいいのですが、人間は迷い深いので、そのままずっとハマってしまいます。
・知識不足
「知識は信心と関係ない」という人もいますが、正しい知識は信心を強固なものにしてくれ、求道心を強くします。仏教の理解が浅い為に、求道心も弱くなってしまうということです。
・体験不足
無常観や罪悪観、現世利益や死の恐怖等々、体験的な理解が弱いと、求道心も弱くなります。
○どっこいしょする求道者
死の解決をしていないのにしたと思い込み、安心することを「どっこいしょする」と言います。大小ありますが、真面目に求道すると必ずどっこいしょする時があります。そのまま行けば地獄に堕ちてしまうわけなので、どっこいしょは非常に恐ろしい状態となります。
●脱出法
これらの罠にハマりにくくする方法を挙げます。
・教学を深める
・聴聞

◎求道のゴール
求道にはゴールがあります。
●死の解決
ゴールをした世界を死の解決と言います。
●地獄と極楽の2択
求道はゴールしなければ意味がありません。
どんなに真面目な求道者であっても、ゴールしてなければ死後は地獄だからです。
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